祭囃子と里神楽

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大宮前の祭囃子

大宮前の祭囃子は、安政年間(1854-1860)に伝わってきた山の手囃子がこの地に定着し、郷土民に育まれてきたものです。
下高井戸八幡神社の斎藤近太夫氏(本名・確性-かくせい-現宮司斎藤剛氏の五世の祖)に教えを受け、のちに千歳船橋の内海軍次郎氏に薫陶を受けました。
大正11(1922)年に根拠地である春日神社に奉納された額には「当村囃子記念・創立安政三年以来連名」とあり、すでに囃子連を組織していたことがわかります。口伝でも安政2年の大地震の時に囃子連中の家で囃子の稽古をしていたという言い伝えが残っています。
囃子は郷土民の和はもちろんのこと、娯楽の少ない当時、酒や博打にのめりこむ若者たちの健全育成にも貢献したといいます。

しかし第二次世界大戦の災禍は大きく、若手の担い手が出征したうえ歌舞音曲の規制により活動を中止せざるを得ませんでした。
多くの若い命が戦争で失われ、敗戦後にはたくさんの人が食糧難と精神的不安により希望を失いましたが、そのような状況の中で宮前5丁目の柏木仙太郎氏が上高井戸で囃子が復活したという情報を聞きつけ、今こそ大宮前の囃子も復活させようと周りの人に呼びかけました。そして昭和21(1946)年8月14日に、牧野伊三郎氏(保存会現会長牧野慶治氏の祖父)を中心とする6人の師匠と15歳から21歳の6人の若者により、保存会が結成されました。若者たちは丸太に藁を巻いて叩くことから練習を始めたといいます。当時は練習場所もなかったので、会員の家を転々と周り練習したようです。

その年の9月には成田東2丁目の白山神社の祭りに招かれ、戦後初の大宮前囃子が響き渡りました。その後稽古のかたわら港区白金志田町、新宿区大久保、文京区白山東片町、千代田区京橋槙町などの祭りに呼ばれて朝から晩まで囃子を演奏し続け、若者たちの腕はぐんぐんと上がっていきました。
大宮前囃子は昭和57(1982)年には杉並区無形民俗文化財に登録されました。

大宮前の里神楽

大宮前里神楽は、都内に残る保存団体の中でも氏子(うじこ)のみで伝承を保存維持する希少な芸能で、杉並区内ではこれを保持する唯一の団体です。昭和59(1984)年には杉並区指定無形民俗文化財第一号になりました。
安政年間から春日神社の秋祭りに奉納されてきたもので、下高井戸八幡神社の斎藤近太夫が伝えた相模流里神楽の系統を受け継いでいます。
明治、大正時代には盛んに行われ、「天岩戸(あまのいわと)」、「神田種蒔(しんでんたねまき)」、「敬神愛国(けいしんあいこく)」、「八雲神詠(やくもしんえい)」といった演目を得意としました。

徐々に他出や戦争への出征などが原因で舞方が少なくなり、大正後期には春日神社での奉納は一度中断しています。他所の祭礼に手伝いに行くなどの活動は続けていましたが、囃子と同じく第二次世界大戦のために活動は完全に途絶えました。
しかし昭和50(1975)年冬には、中野区鷺宮の神楽太夫元(たゆうもと)であった菊田保雄氏の指導の下、大宮前里神楽を復活させました。
残念ながら、菊田保雄氏は昭和51(1976)年に急逝したため、昭和52(1977)年から平成17(2005)年まで埼玉県新座市の大夫元で市指定無形文化財の武州里神楽石山社中の石山大隅氏に指導をしていただきました。そして昭和53(1978)年大晦日には約60年ぶりに「年越しの里神楽」が復活しました。

昭和59(1984)年春には無形民俗文化財の指定を受けたのを記念し、区内の6つの囃子保存会が集まり人々の前で囃子や里神楽を披露する「杉並郷土芸能大会」を杉並教育委員会と共催しました。この行事は現在に至るまで毎年行われています。以来、地元の春日神社のほか東京都内の神社の祭礼で神楽を奉納しています。
大宮前の里神楽は全部で15座あり、古典ものは「天岩戸」、「御禊三筒男神(みそぎみつつおのかみ)・寿三番叟(ことぶきさんばそう)五人囃子つき」、「八雲神詠(やくもしんえい)」、「菩比神使(ほひのかみつかい)」、「天の返し矢」、「天孫降臨(てんそんこうりん)」、「日代の宮(ひしろみや)(申しつけ)」、「熊襲征伐(くまそせいばつ)」、「八幡山(やはたやま)」、「稲荷山(いなりやま)」、「悪鬼退治(あっきたいじ)」、「敬神愛国(けいしんあいこく)」、「神田種蒔(しんでんたねまき)」、「神剣幽助(しんけんゆうじょ)」の14座、近代ものは「紅葉狩り」1座となっています。
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